生きるの楽しい

生きるのが楽しい

文化に力はあるか?

 
これは頂いたマシュマロへの回答記事です。
 
(前略)
文化についてです。
先ほどtwitter似て、文化の力を信じてみたい、という文言を見ました(絵画を紹介するアカウントさんです、)
文化の力ってなんだと思いますか?
文化と言うと主語が大きくて難しいのでここではかりに絵画とさせてください。文学に置き換えていただいても大丈夫です。
わたし自身はは絵画が好きでよく美術館に行きます。でも絵画がなくても困らないひともいますよね。わたしの周りにもいます。絵画は食べ物じゃなくてお腹がふくれる訳でも無いし、観たからと言ってお金になる訳でもない。ウイルスにかからなくなる訳でもない。
文化の力って何なんでしょうか。
文化に力がないとは思いませんがそれがどうひとに影響を与えるのかいまいちわかりません。
文化にひとを救うことってできるんでしょうか。
 

マシュマロで頂いたご質問、私の中に無形の答えはあるのですが、きちんと言葉にしたことは無いなあと思ったので、折角頂いた機会に、真面目につらつら書いてみようと思います。
これは書き終わった未来から来た私が言うので間違いないことなのですが、相変わらずクソ長いよ。
 
 
さて、こちらのお話、文化だと主語が大きいので、お言葉に甘えて、『文学』でお話したいと思います。
 
文学に力はあるのか?文学は人を救うのか?

それについて考える時、いつも思い出す言葉があります。
 
「文学で腹は膨れない。文学は飢えた人に何の力も持たない。けれど、飢えた人のいない世界を作るために、文学は力になれる」
 
原典は忘れてしまったのですが、調べれば出てくるのかな?
多分似たような言葉は沢山あると思います。
これと合わせてもう一つ、
 
「文学は功利主義を否定する手段である」
 
これは、大学の教授が授業中に語った言葉です。前後の文脈は忘れちゃいました。
忘れてばっかりか? 忘れてばっかりなんです。
忘却は人類に唯一残された救済だって言うし……(?)

今回ご質問頂いたことの回答の一つに、この二つの言葉はヒントになるかもしれません。
 
「絵画は食べ物じゃなくてお腹がふくれる訳でも無いし、観たからと言ってお金になる訳でもない。ウイルスにかからなくなる訳でもない。」
 
まさしくおっしゃる通りで、文学はそういった意味で何者も救わないと思います。
絵に描いた餅でお腹は膨れないし、どれだけ美味しそうな食べ物の描写をしても、その人の飢えは満たされないです。ウイルスは消えないし、コロナの治療薬にもならない。
でも、飢えた人を無くすのも、ワクチンを開発するのも、ロボットじゃなくて人間なんです。
ここに文学の存在意義があると思います。
(文学、は、絵画でも文化でも何でも好きな言葉に置き換えて下さいね)

人間だから、喉元過ぎたら熱さを忘れるし、自分の身に起こらなかったら他人事です。今回、こうやってコロナで大騒ぎしても、自分が罹らないまま落ち着いたらきっと忘れていくでしょう。しょうがないんです。人生忘れてばっかりだもの。
でも、本当は忘れたくないし、忘れちゃいけないんですよね。
 
この時の悲しい気持ちとか、焦ったこととか、無力感とか、或いは誰かの優しい言葉とか、そういうものを、文学や絵画作品は保存することが出来ます。
保存って言うのは、実際に体験した人が思い出せるだけじゃなくて、体験していない人も、それに触れれば追体験できる、という意味です。
 
それはただの『記録』には出来ないことです。
「罹患者●名、死者●名」っていう言葉から全てを思い出せるほど、私達は優れていないですし、「誰かにぶつからなければ信号も渡れないような街から人が消えた」という言葉から、その景色を想像できる程度には、私達には力があります。
 
そもそも、「大切な人が死んだら悲しい」「誰かの大切な人が死ぬことも悲しい」「自分が誰かを殺してしまうかもしれないことは恐ろしい」。そういった想像力や感受性を育てるものこそが文学では無いでしょうか?

その想像力が無い人はこう思う訳です。「大切な人が死んでも自分が楽しければいい」「誰かの大切な人なんてただの他人」
 
「文学で腹は膨れない。文学は飢えた人に何の力も持たない。けれど、飢えた人のいない世界を作るために、文学は力になれる」
 
この言葉って、つまりそういうことなんじゃないかなって思います。
文学は、今、飢えている人に対して無力です。何にも出来ません。でも、飢えている人がいない世界にしたいって思う人の心を作ることはできます。
 

さて、もう一つ、「文学は功利主義を否定する手段である」という言葉です。
功利主義って言うとなんか難しいので、ここでは乱暴に「幸福=利益=有用性こそを最上におく考え方」と説明させて下さい。
まだ何か難しいですね。「役に立つものが最強」って考え方です。「役に立たないものはどうでもいい」って考え方です。この説明、各所から怒られそう。許して。

役に立たないと意味が無い、利益を上げないと意味が無い、『何か』にならないと意味が無い。そういう考え方って世の中にどうしてもあります。まあ基本が資本主義社会ですしね。利益を出さなきゃ潰れていくだけです。
決して悪い思想じゃないです。必要な考え方です。
 
ただ、これを突き詰めすぎると、大変なことになっていっちゃうんですね。

じゃあ、「何か」になれない私に価値は無いんでしょうか?
一円にもならない子供の落書きに意味は無いんでしょうか?
役に立たない人間は生きてちゃいけない?

そんなことないじゃん!?!?!?!?
 
「AのためのB、という考え方は、Aが無くなった時、Bの価値もなくしてしまう。功利主義とはそういう考え方だ。そうじゃない。BのためのBでいい。それはそのまま、何のためにもならなくていい。資本主義社会で、たったそれだけのことが難しくなってしまった。文学は、何のためにもならなくていい。文学はただ文学である、というだけで功利主義を否定することができる」
 
教授がこんなことを言っていたかどうかは覚えていませんが、まあ多分こういうニュアンスだった気がする。違うかもしれん。
でも実はこれって、さっきまで語っていた
 
「文学で腹は膨れない。文学は飢えた人に何の力も持たない。けれど、飢えた人のいない世界を作るために、文学は力になれる」
 
とは、ある意味正反対の考え方なんです。

言ってしまえば、「文学は力にならなくていい」「文学に世界を変える力なんてなくていい」「世界を変えるための文学ではない、文学のための文学である、ということに意味がある」
 
何か、すげーーな!?って思いませんか?
たったこれだけの言葉ですら、既に文学の意味が真っ二つの正反対になってるんですよ。
そしてどっちが正しいとかどっちが間違いとかじゃないと思います。
 
だから、「文学(文化)に力はあるのか?」そのご質問に対して、私の回答はこうです。
 
「あったりなかったりするし、あってもなくてもいい」
 
この文学の所に、絵画でも、文化でも、或いはボイラーという私の名前でも、どこかの政治家でも、タンポポでも燃えるゴミでも、なんでも好きな言葉をいれて頂いても、私の回答は同じになると思います。
 
「あったりなかったりするし、あってもなくてもいい」
 
でも、私がそういう考えに辿り着いたのは、間違いなく文学や、或いは絵画や音楽などの力であることは間違いないのです。
文化の力って、そういうこと、なのかもしれません。
 

あと、ここまで話しといてなんですが、あらゆる本や絵画や音楽や、映画やゲーム、そういった、ただ生活するだけなら不要なものがあるからこそ、今の外出自粛をしているこの日々を、私は心は豊かに楽しく過ごせているのは間違いないので、その点で言えば「文化に力はバリクソめっちゃ最強にある」と思います。
 
 
文化に力、バリクソめっちゃ最強にある!!